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会員の広場

パリ 聖フランシスコ・ザビエル教会 2018/03/13

聖マグダレナ・ソフィア バラ(1779~1865)
のご遺体が安置されています
2009年6月19日 聖心(みこころ)の祝日に
ベルギーからここへご遺体が移されました

ご遺体の側の解説パネル(フランス語と英語・・右端)↓

聖心の使徒 聖マグダレナ・ソフィア バラ(1779~1865)

マグダレナ・ソフィア バラはフランス革命の直前の1779年、ブルゴーニュに生まれた。後に司祭となった兄ルイに教育を受けた。キリストの聖心への深い思いに、1800年20才で修道女の誓願を立て、同時に子女の教育を通してキリストの愛を伝えることを使命とした女子修道会を設立した。1865年に85才で亡くなるまで、総長であった。
最初の寄宿学校と無料学校は、アミアンに建てられた。1818年から、修道会はヨーロッパやアメリカに広がった。1820年、パリのアンバリッド地区に会の本部を置いた。黙想の生活を生き、困難な政治的背景の中、キリストの聖心を尊び、神の愛を会全体に拡げた。教育活動を通して、社会に必要な霊的で賢い女性を育てた。今、約3000の聖心会の会員が、世界中で種々の活動に従事している。
1904年には、フランスの対聖職者運動のため、会は聖マグダレナ・ソフィアのご遺体をベルギーに移した。1908年に列福(聖人のひとつ前の福者に列せられること)された後、ベルギーの芸術家シェーラー作の聖遺物箱に、その後1909年、ゲントのブルドン作のネオゴシックスタイルの金と銅のシャッセに安置された。聖マグダレナ.・ソフィア バラは、教皇ピウス11世によって、1925年に列聖(聖人に列せられること)された。2009年、シャッセは、その生涯の大半を過ごしたパリに戻された。

献灯
ザビエル教会にほど近い「ロダン美術館」(旧ビロン邸 1730年頃の建築物)には、1820年~1904年      聖心会本部がありました。1865年5月25日 聖マグダレナ・ソフィア バラはここで帰天されました。

美術館入口

今でも聖心会のマークが残されています


美術館2階から中庭をのぞむ 美術館(当時寄宿学校の校舎として使われていた)
どちらもパリ中心部に位置しています。フランスを訪れる機会がありましたら、お立ち寄りになってはいかがでしょうか。
茂仁香会10回生 上田(並木)葉子、清水(能町)純子

2017年母の会より「中古の制服・スキーウェア提供のお願い」

母の会からのお願いです。
皆様のご家庭に眠っている、またはご近所に眠っている、制服・スキーウェアの
ご提供をお願いしております。
詳しくは、添付のPDFをご覧ください。こちらをクリックでダウンロードできます。

100年前、日本に降り立った3人のシスタース。創立者マグダレナ・ソフィア・バラがフランスで学校を開設して200年余。天上界から、どのようなおもいでこの日を御覧になっておられるのかと、御ミサの間、思いを馳せておりました。蒔かれた愛の種が、時間と空間を経て、このような実りの時を迎えることができました。

信仰を胸に勇気、理想をもって、淡々と努力していくことの素晴らしさを感じさせて頂きました。与えられた環境の中で、私達も種を蒔く人になっていきたいと思います。

「聖心ファミリー通信」が下記同窓会・委員会より発行されております。
PDF形式になっておりますので、皆さん是非ご覧ください。
編集・発行
日本聖心同窓会(JASH)
AMASC東京大会記念基金委員会

ニュースレターvol.01 ニュースレターvol.02
三回目にご登場下さるのは、10回生の逢坂 薫さんです。
1994年の結婚後、国際協力の仕事に携わるご主人の赴任に伴い、チリ、シリア、インド、エジプト、イエメンに、現在はボツワナ共和国で暮らしていらっしゃいます。

10回生 逢坂 薫さん

 私は2005年1月から約2年間、夫の赴任に同行してアラビア半島の南端、イエメン共和国で暮らしました。日本からは遠く文化も異なるイスラムの国。今日はそのイエメンについて少しご紹介したいと思います。  私自身、イエメンについてよくわからないまま旅立ちましたが、「シバの女王」「モカ・コーヒー」の国と聞くとご存知の人は多いと思います。紀元前10世紀頃から歴史にその名を表し、聖書にも登場する乳香やコーヒーなどの交易で「幸福のアラビア」とまで称され栄えた地。残念ながら石油資源に恵まれたアラビア半島の他の国々とは異なり、現在ではアラブ世界の最貧国になってしまいましたが、その反面、伝統を重んじる誇り高い人々、数世紀前と変わらぬ歴史的街並みを今に残すエキゾティックな国です。  イエメンで一番の見所は世界遺産に指定されている首都サナアの旧市街「オールドサナア」。外壁は素朴な薄茶色の日干し煉瓦、「カマリア」と呼ばれるステンドガラス装飾を施した窓が特徴的なイエメン独特の高層住宅群の間を縫うように狭い路地が入り組み、道の両側には生活雑貨、乾物、衣類、布地などを売る店を中心に、間口一軒の薬屋、金物、木製品、水タバコ、ジャンビーア(イエメン風三日月型短刀)、銀細工を売るアンテークショップ、イエメン料理の青空レストラン、アザーン(お祈り時間を告げる呼びかけ)を轟かせるモスク(イスラム寺院)までがひしめくように軒を連ねているこのスーク(市場)は訪れるたびに新しい発見があるところ。かつての繁栄を物語るようにキャラバンサライ(隊商宿)も昔のたたずまいのまま今に残っています。

 日常生活については、食料品や日用雑貨は市内にいくつか近代的なスーパーマーケットがあり、ほとんどのものは手に入ります。ただ新鮮な食材が揃うのはやっぱりスーク。野菜は泥つき、お肉屋さんには生きた羊や子牛がつながれていてとかなりワイルドですが、人々がひしめきあい、呼び込みの声が飛び交う中で値段交渉をしながらのお買い物は楽しいものでした。  アラブ諸国。それもイエメンというとちょっと怖い国という印象を持たれる方も多いかと思います。もちろんテロなどの危険がないわけではありませんが、一般のイエメン人はとても親切で義理堅い人が多かったです。スリなどの犯罪も少なく、日常生活はむしろ日本より安全な印象でした。私はサナアにある日本イエメン友好協会で、若いイエメン人に日本語を教えるクラスのお手伝いをしていましたが、生徒たちはみんな礼儀正しく陽気な子ばかり。おもしろかったのはほとんどの男子生徒が日本アニメの大ファンでとても詳しいこと。人数は少ないけれど女子生徒もいました。クラスでは一緒に日本料理やイエメン料理を作る機会もありましたが、イエメンでは12歳頃には料理を一人前に作れなければ恥という家庭が多いそうで、雑ながら彼女たちの手際の良さには驚かされました。これも大家族で暮らし、目上の人の言うことを大切にと躾けられているからでしょう。日本では忘れられかけている心遣いにはっとさせられることもある2年間でした。

今、私はまた主人についてアフリカのボツワナで生活を始めたところですが、今度はアフリカでどんな発見があるか楽しみです。
二回目にご登場下さるのは、一回生の大八木かほるさんです。  モニカ会第三回及び第五回会長を勤められ、 現在お茶の先生として活躍の場を広げておられます。 そのお人柄を慕い、沢山の会員の皆さんが、生徒として通ってらっしゃいます。

1回生 大八木かほるさん

 こんにちわ! 一回生の大八木と申します。昨年末、茂仁香会のホームページの寄稿を齋藤会長より依頼されながら、逃亡を重ねて、ついに立春を迎えてしまい、深く反省をしております。何分取り立てて社会に貢献できるような仕事をしている身でもなく、市井にて平々凡々好きな?お茶の稽古を教えさせて頂いて、日々在る昨今につき。その中での一コマを書かせて頂くことに致します。  去る2002年、札幌の地において身体に障害を持つ人々の世界大会が開催されました。新聞TVなどで、盛んにバリアフリー云々と取り上げられていましたから記憶にある方もいらっしゃるかと思います。その折り、会場の中に、参加者に日本の伝統文化に少しでも触れて頂くということで、いくつかのコーナーが設けられました。その中の一つに茶道もあり、椅子席と、畳の席が設けられ、障害者の方々とご一緒にお手伝いをさせて頂きました。参加された方々は、皆様自分の国の伝統・文化に対し、確固たる誇りを持っていられるのと同時に、今回訪れている日本という国の伝統・文化に対しても強い関心を持たれ、次々と質問が投げかけられました。知らないことを理解しようとする意欲、努力、情熱に感服すると同時に、知って頂けることの喜びというのでしょうか、互いに、一生懸命な姿はとても美しいものでした。自国の伝統文化を大切にし、誇りを持つことによって、他国の伝統文化をも認めるということ。それは人と人とが相手を互いに認め合って尊重しあうことより生まれる、思いやりの心があって成立するのではないでしょうか。あの数日間、会場には多くの人々の優しさと思いやりが溢れていました。   目の不自由なイタリア人がいらっしゃいました。たった一人でイタリア語しか話せず、いらしたのです。その勇気に言い知れぬ感動を覚えましたことを添えさせて頂き、終わりにさせて頂きます。多くの皆様に感謝!

「会員の広場」開設にあたって

 このたび、新たに「会員の広場」を開設いたしました。
 今後、さまざまな方面でご活躍中の同窓生にお願いして、近況報告などの原稿をお寄せいただき、皆様にご紹介させていただきたいと思っております。
  第一回目を飾るのは、ユニセフにお勤めの、24回生の加茂隆子さんです。昨年より、友愛セールの喫茶部にユニセフへの募金箱を設置させていただいておりますが、そのきっかけとなったのが、加茂さんからのお申し入れだったこともあり、今回白羽の矢が立ちました。
  皆様に是非ご一読いただき、より一層、ユニセフの募金へのご協力をお願いしたいと思います。

   今後、皆様にも、役員より原稿の依頼があるかもしれませんが、何卒ご理解、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

24回生 加茂隆子さん

 世界の子どもたちのために何か自分に出来ることはないか。そうした思いから、昨年より私は、(財)日本ユニセフ協会で契約職員として働いております。日本ユニセフ協会とは、国連機関であるユニセフが世界の先進37ヶ国に持つ国内委員会の1つで、日本国内での広報活動や募金活動などを行っています。私は学校事業部という学校向けに広報活動をおこなう部署におります。
 私が国際協力の仕事に携わりたいと考えるようになったのは、中学生の頃だったように思います。ご存知の通り、札幌聖心では、フィリピンのスモーキーマウンテンで生活する子どもたちの話や、インドのマザーテレサの話など、世界で起きている問題について考えたり、話し合ったりする機会がたくさんあります。そうした機会を通じ、自然と関心を持つようになりました。
 念願叶っての日本ユニセフ協会での仕事は、私にとって全てが勉強です。仕事を通じてユニセフの活動や日本の生活からでは想像もつかないような世界の子どもたちの直面している厳しい現状を知りました。そして当たり前に思うようなことが、実は非常に恵まれているのだということを痛感する毎日です。
 例えば、夏ともなれば気温は40~50℃になるイラクでは、常にドライヤーを顔にあてられているような暑さだそうです。そうした中にあって、水が不足しているため、子どもたちは水が貯まっていれば泥水であってもそこに駆け寄って水を飲みます。水を飲まないとすぐに脱水症状になってしまうからです。しかし水が汚いため、飲んでも下痢をします。薬もなく、また食料が不足しているため体力のない子どもたちは、下痢が原因でたちまち命を失ってしまうのです。
 今年は日本も例年にない猛暑ですが、日本で生活する私達は、暑ければ冷房で涼むことが出来、また蛇口をひねれば水を好きなだけ飲むことが出来ます。お腹を壊しても薬局で簡単に薬を買うことが出来ます。そうした普段意識しない何気ないことも、本当は非常に恵まれた環境にいる証なのです。
イラクだけではありません。世界では毎年1100万人の5歳未満の子どもが、下痢などの予防できる病気が主な原因で死亡しています。また、学校に通うことも出来ず、過重な労働を強いられる子どもが2億5000万人いるといわれています。戦争に巻き込まれトラウマに苦しむ子どももいます。
 私は、この仕事を通じて、これからも、そうした厳しい環境に耐えながら懸命に生きようとする子どもたちのことを一人でも多くの人に知って頂き、世界の子どもたちの健やかな成長と幸せを願うユニセフの活動へのご協力を仰いで参りたいと思っております。そして少しずつ支援の輪が広がり、世界中の子どもたちがそれぞれの可能性を最大限に花開かせるような、そのような社会となることを切に願って止みません。また、日本ユニセフ協会では、政府に対して『子どもの権利条約』の選択議定書の早期批准を求め、そのための国内法の改正や整備を訴える活動なども行っておりますが、そうした活動が一日も早く実を結び、日本が世界の手本となるような成熟した社会へと成長を遂げることが出来るよう、微力ながら私も、末端からそうした活動を支える一助となれたなら幸いです。
 末尾になりましたが、今年も、昨年に引き続き、友愛セールにてユニセフの募金箱を置いていただけるとのことで、大変うれしく思います。昨年、同期生とともに茂仁香会・東京支部総会に出席いたしました際、幸運にも会長の斎藤珠代様とお近づきになる機会を得ましたことで、このような温かいご協力をいただけることとなりました。卒業し何年もの時間を経ても、札幌聖心という一つの絆で結ばれ、このように同窓生のみなさまのご厚情に支えていただける幸せは、やはり聖心ならではの伝統なのではないかと強く感じております。皆様のあたたかいお気持ちは、弊協会を通じ、ユニセフの現地での活動につなげて参ります。今後とも、ご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。

メモ

スマホ対応になりました。